信号で停車中にキスをしたら後続の親子に拍手された日のこと
ご無沙汰してます。自分の手で枯らしてしまったものと、もう一度向き合ってみることにします。
言語化することが長所だと自負しております。ただこのプロセスは多大な徒労を含むわけです。
わたしは考えに考え抜いて初めて言葉を発します。いや考え抜いた末にその言葉は浮遊することなくただの業として燃やしてしまっているのかもしれません。
本音はいつも胸のなか。ゆえに「無口でつまらない奴」という烙印を押されてしまうわけであります。
悲しいかな、それに反抗したくとも勇気がわかないのです。嫌われてしまう恐怖に打ち勝てないのです。
そんな折、わたしはある少女に言われました。なぜもう書かないのか、と。新しいものが生まれなければつまらないではないか、と。
気がつけばわたしは、この白紙に文字を羅列しております。また無駄なことだと分かっていてもやりたくなってしまったのです。
誰かに届くとか届かないとかそんなことではなく、ただそこに救いを求めているのかもしれません。
受け取り手がいないからこそ、わたしの本音がそこに現れる。
きっかけなんてなんでもよかった。それが偶然にもその少女の叱咤激励だったわけであります。
さて世界が変わりました。それでも人生は回っていきます。
もちろん変化は必要です。でも突飛なことをする必要はありません。できることをやればいいのです。ひとつひとつ自分のものにしていけばよいのです。
これが何かひとつのきっかけになることを願って。